191208。1年ほど前に「こんなの書きたいんだよね」と言っていた漫画をやっと描けました。描きながら「やっぱり薄暗い話は描けない…大好きなのに自分には向いてない…」と心底実感した。そうだよ、考えてみればひま本もほぼ全てギャグ漫画だった。シリアスは筆を鈍らせる。

 

 

 

191127。生きてます。最近は特に炭善によって生かされています。いやめっちゃ性癖ドストライクなcpなんですよpixivの小説を漁りに漁って毎日幸せ。

それはともかく今年の春から今に至るまでめっきり漫画を描けなくなったので、意地でも描いてやる精神を身につけたい。キャー頑張って私応援してる(棒読み)。

 

 

 

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181103。ガードレールを描きたかっただけでした。でもガードレールだけだと浮くからコンクリートも描こう、虚しいから海も付け足そう、無駄に横長になるから空も描こうの繰り返しでこんな絵になる。ガードレール以外全て蛇足だと思うと「いやいやいや蛇足多くね?!」と自分でもツッコミを入れてしまう。

 

 

 

181024。私は直前に見たものにかなり影響されるので、線画はいつも通りでも塗り方は結構軽率に変わる。この方はどう塗ったのだろうと想像し、どうにか再現できないかと予測を立てて筆を運ぶ。途中で元の絵など忘れて己の欲のままに塗りだすことも多いし、今まで参考にした絵描きさんの世界観や塗り方を再現できたことなど実のところ一度もないけれど、描くたびに新たな塗り方を発見するのは新鮮で物珍しい。

この頃気になる絵描きさんを見つけたら、その方の画像欄の奥底まで見る癖がついた。運が良ければ有無を言わせぬ圧倒的な魅力の誕生に至るまでの作品の数々を目にすることができる。

 

 

 

181010。先日好きな絵師さんの作品を出来心で模写したんですよ。ただ色など塗れる訳もないのでレイヤーをかけて一度だけ線画をペンでなぞるという、模写にしては何ともお粗末な形でしたが。瞳や目の大きさ、顔のバランス、髪の広がり方などを確認して「意外と目と目の間隔広くてもどうにかなるな」なんて素人同然の感想を抱い手から数日。何も見ず普段通りに落書きしていたら、どう考えてもいつか参考にした絵師さんの影響をモロに受けた絵ができた。オリジナルなのにどこか盗作臭さを感じさせる。塗りも顔も今までの描き方と違うから仕方ない。一度トレスしただけでも思い切り絵に反映されるのは先代から学ぶ内容が大きいのか単に私が馬鹿素直なのか。久しく模写なんてしてこなかったけど、これ程変わるならまた違う方で模写してみようか。(181011)

 

 

 

181002。こういう絵を描きたいと堂々と言える場所が最近できた。以前からHP内でちょくちょくBLも百合も好きだと割とあけすけに言ってきたもののSNS等では流石に話題に出せたこともなかったので嬉しい。お見かけしたらどうぞ放置して下さると幸いです。まあこれ以来まだ描いてないけども。

よく「BLないしは百合好きになる前の自分を思い出せない」と言いますが、私の場合はつい1年前のことなので特に惑うことはありません。目覚めたきっかけもよく覚えています。ただそのきっかけが無くとも、過ごした環境による男性への強い苦手意識・性自認での違和感という自身の経験から、いずれは自ら門を叩いたでしょうね。私自身色々…そりゃもう色々と面倒な思いをしてきたので、正直百合やBL・LGBT界隈の話題は他人事ではありません。そのあたりの話もまたどこかでできたらと思います。いや、していいもんだろうか。とりあえず男性への苦手意識を本当にどうにかしたい。(181011)

 

 

 

181001。色々面倒な考えがあって、私は普段タグをつけて活動することはまずありません。ただ去年の秋頃から少し方針を変えて、ある投稿先だけは版権作品の絵にタグをつけて出すようにしています。

さてタグをつけ始めて約1年。先日ついにどうしようもなくマイナーな作品のタグからやって来て下さった方が登場。私がタグの創設者にして唯一のユーザーだったところに、同じくその作品をよく知る方が描いた作品が並ぶ喜びと安堵に襲われる。よく見るとこの方はかなり意気投合できるだろう程に私と好きな作品が被っていた。この方も絶望の瀬戸際で、でもかすかな期待を抱いて検索した末の「該当件数:0」を経験してきたのだろうか。そんなことを想像して、夜中に1人静かに腕を組む。

 

あまり意識していなかったけれど、後から来た方が乏しい仲間を探す際にまず確認するのはタグなんだ。それなら私はタグを使おう。普及のためなんかじゃない。どマイナーという宿命を背負い何度も涙を吞んできた方に、僅かながらでも同じ生きづらさを抱えている者がここにいるよと手を差し出すために。ずっとここで1人だったんだよと涙目になりながら、最高のハイタッチをするために。(181002)

 

 

 

180925。実はこの1日前に5p程の漫画を描いた。全く面識のないとある絵描きさんの漫画のラフを見て唐突に漫画を描きたくなり、丁度開いていたクリスタで一から作り上げた。構想を練ってコマ割りを決め設定したゴールまで描き切るのに約6時間。急に思い立ったものだから、終わったのは深夜もいいところ。思いつきやその場の勢いで行動することが多い方とはいえ、もう少し無理のないよう計画的に生きようとは思わないのかね私は。趣味で体を壊したらあかんよ。それはあかん。

ちなみに何が何でも完成させる経験を積むために、漫画へのハードルは思い切り下げた。コマの一つでも描けたら上出来。丸描いて点を3つつければシミュラクラ現象が機能してくれるから大丈夫。ラフに行こうぜ、と。そして本当に全部フリーハンドでラフに書き殴った。清書なんてする気もない。最初に決めたゴールを満たしているから他人にどう言われようと自分にとっては合格。出来不出来なんか気にしない。文脈がおかしくても最初は構わない。とにかく始めた原稿は完成させること、コマをきって線を引くこと、アングルの選択肢を増やすこと、私が今の段階で頑張るべきはそれぐらいだもの。内容やキャラ設定について考えるなんて夢のまた夢だよ。

そして今朝、起きて間もなくぼうっとした頭で昨日描いた漫画を見返して、次の日に清書したいと思えるようなものが面白い作品なのではないかと漠然と感じた。私は1日で描き切れるものでないと取り組もうとしないけど、手の込んだ作品は1日では完成するはずもない。数日数週間数ヶ月、数年かかることもある。日をまたいで冷静な頭で見返しても完成させるべき魅力に溢れている作品はきっといいものになるだろう。昨日描いた漫画は改めて清書したいと思えるものではなかった。漫画はとあるSNSでの投稿のみ公開としましたが、いつかHPで堂々と掲載できる作品を作りたいものです。

 

さて漫画を描いた後に描くイラストほど気持ちよく描けるものはないと思う。対象を一つに絞って集中できるなんて本当に素晴らしい。漫画では人物や背景をコマごとにいちいち描かねばならないから手間が段違いに多い。立ち絵だけでいいなんて最高だと感動に震えていたら、なんだかまた今までの塗り方とは違うものができた。たった数ヶ月の間に着色方法も次から次へと改変されていく。1ヶ月後にはどんな塗り方をしているだろう。(180927)

 

 

 

180921。生の躍動も温もりも決して許さない、生きているのになぜここに居るのかと四方八方から無言で責められるような場所に行った。そこは電車を何回か乗り換えた先にある田舎町の、田畑や住宅に囲まれたもの静かなところにある。ここは過去に色々あったものの現在では優秀な人材を輩出するそれなりに立派な教育機関だ。この歳まで縁もゆかりもなかったけれど、色々あって来訪するようにとの連絡を頂いたため、初めて足を踏み入れた。建物の内外共に独特な設計で、SFを思わせる近代的な作りを最初に見た時から、私のような部外者の来訪を建物が明確な意思をもって拒否しているかのような違和感を覚えた。少なくとも親しみはない。それでもまだ入り口だ。この先施設内を見て回ればきっと胸躍るような興味深いものが見つかるだろうと期待はそれなりに抱いていた。午前の要件が終われば午後の用事が始まるまで自由にしてよいと伺ったため、一人で早速施設内を散策した。

 

人工的な芝生に成長する未来を奪われた日陰の木、複雑に入り組んだ立体構造を支える飾り気のないコンクリート壁、温もりなど存在すら許されないようなモノトーンの館内にはひやりと冷たく硬い椅子。無数にある階段とドア、そして闇に光る監視カメラ。錆びと落ち葉でくすんだ手入れのないガーデンテーブル。人の笑い声が聞こえる方向を向けば目の前には無言で接近を阻む灰色の壁。真上にある空がやけに遠く、空気が薄い。午後の一番暖かい時間だというのに腕には鳥肌。確かに一人なのに首筋が痛いどころかじわりじわりと首を絞められていく圧迫感で息苦しい。入って数時間でここにいたらそう遅くない内に気が触れると確信した。こんなに人を、生あるもの全てを明確に拒否する空間は初めてだ。

恐ろしいことにと言うのかやはりと言うのか、ここの職員のほぼ全員が無表情で固く感情が見えない。笑みも怒りも悲しみも、見栄や謙遜のような人間くささを綺麗さっぱり失くしていた。空間が人を変えたんだろう。私もここにいたらそうなるに違いない。分かりやすい恐怖ではなくじわじわと精神を侵されていく感覚に背筋が凍る。私は適応力は高くいざとなれば高層ビルでも高架線の下でも適応するけれど、初めて本能がここから出ろと精一杯の警告を出した。ここはだめだ。早く、早く出よう。

 

中庭の迷路の小さな一角で立ちすくんだ時、ふとここにはスミレの花がよく似合うと思った。この灰色の世界であの小さな力強い青紫色はさぞ映えるだろう。そして翌日には職員がぶつりと摘むんだ。窓辺の花瓶に添えるのではなく、無造作に書類が詰め込まれたゴミ箱に放るために。根まで取らず、人がその存在を握りつぶしたことを無言で知らしめるために見せしめの如く茎を残しておき、一つ、また一つと花が咲く度に千切っていく。いつか中庭はスミレの庭と称される程になり、施設の皆がやって来てカメラを向けるんだ。花が全て摘まれた茎だけのスミレを撮るために。(180922)

 

 

 

180921。そもそも漫画を描きたいと思い立ったのはこれが初めてじゃない。絵を描く者ならきっと誰もが一度は考えることだ。実際その衝動に任せて一からデジタルで短いエッセイや二次創作漫画を描いたことだってある。ただ最後に描いてから1・2年ほど経った今、びっくりするほど描き方を忘れてしまっていた。

なぜ描けなくなったんだろう。やはりデジタルから長期間離れすぎたのが原因だろうか。資料収集に考察に試験に絵を描いている時間はなかったからなあ。仕方ないで済ませることかもしれないけど、いい加減描き方を思い出してもいいじゃないか。白紙のページを前にした時のあの無力感と恐怖をどうにかしよう。下書きを描くことにもいい加減慣れようぜ。言葉ではなく絵で伝える技術も磨かないと。課題は山ほど見つかるし、それを解決するには描くのが一番だということもはっきりしているのに、描けない。

 

描けたといういつかの過去にしがみついているから今再び失敗するのを恐れている。また試行錯誤するのが辛い。本当は絵を描いている時間もないはずなのに絵の練習をしている自分に葛藤する。筆が進まない原因は本当は面倒臭さや自分の脆いプライドが生み出している。分かっているけど怠惰な自分を直視したくなくて「しばらく離れていたから」ともっともらしい理由をつけるんだ。勉強していない限り絵が急に上達するはずもないのだから、前回より上手いものが描けるなんてありえないよ。何もしなくとも時間だけは経つから、そのうちに勝手に成長した気になって自分に期待しているんだ。前にも言ったように、最初は1pなんて言わず1コマからまたスタートしよう。思い出すのではなく、また勉強していこう。描けないと不満を抱えてようやく前に進めるんだから、伸びしろはきっと沢山あるよ。(180922)

 

 

 

180918。これぐらいなら時間をかけずにぺぺっと描ける。もちろん構図やストーリーを考えると果てしない時間がかかるだろうけど、最初から清書しないと決めていれば気楽に取り組めるんじゃないだろうか。「いやいやお前、清書するしないも漫画を描く描かないも、そんなの自分の好きにしろよ」と至極当たり前のツッコミが入りそうだ。うん、私もそう思う。でも世の中上手い人のインフレで「創作です」「落書きです」と名乗りながら宝石の如く光り輝く作品を出す絵師様がそこかしこにいるんだよ。絵師様方が言う落書きにも及ばないものしか生み出せない私は、もはや落書きと称することさえ許されないような感覚がどこかにある。そんな落書きにも満たないものを世に生み出すなど非難されるのではないかと、誰に言われた訳でもないのに構えて、遠慮してしまう。誰かに存在してもいいよと許しをもらいたくなる。そんな気持ちを抱くのは私だけだろうか。私だけか。全く今日も豆腐メンタルが絶好調だぜ。

 

ただまあ、誰かに許しを得るも何も結局こうして描いている。人に迷惑がかかるのでは、非難されるのではと怯えているくせに描くのはやめない。何だ、私も変なところで豪胆というか奔放じゃないか。よしよし、その調子で描いてしまえ。上を見ればキリがないけど、だからって自分が筆を折る理由にはならないからさ。線が汚い底辺は大人しく黙っていやがれという非難の中でも、自分が描いたものに賛同してくれる方に出会えたらそんな嬉しいことはない。

ちなみに落書き専用SNSに出したら一度に5つもgoodサインを頂いた。誰か激しく賛同してくれた方がいるんだろう。ありがとう。背中を押してくれてありがとう。1コマ、2コマ、1pと少しずつ描いてみようと思います。(180919)

 

 

 

180918。昨年12月に描いたもの(本ページ下部にあります)を思い出して何だか感傷的になる。そういえばこんな2人がいたよ、それにしても私の好みは本当にブレないなあと独りごちて、とある海外の絵描き用SNSに投稿した。ちなみに私は日本人などまずいないだろう海外の投稿場所でも頑として外国語を使わない。どれだけ外国語が堪能になったとしても日本語を貫くと思う。自分の想いを間違いなく確実に言い表わせるのは、結局のところ日本語しかないからだ。だからこれについても当然日本語で一言二言、いつものように言葉を添えて投げ捨てた。

それから少し経った夜中、ふとコメントを頂けていることに気がついた(海外では割と初対面でも気軽にコメントし合う。落書きでもよく頂けるのでちょっと嬉しい)。そこには"You writings in Japanese is very pleasing to me"という簡潔でまっすぐな言葉と、鼻息を立てて力説するいくつかの絵文字が。この方は英語が母語の方みたいだけど、日本語が読めるのか、そうでなければ翻訳して読んでくれたのだろうか。日本語で書いた文章を日本語非母語話者に心地いいと言われたのは初めてだった。

 

いつだったか個人誌にも書いたけど、私は絵と文章のどちらかに重点を置いている訳ではない。ビジュアルに文字と伝達手段が異なるだけで絵も文章も意思疎通のためのツールだと認識しているため、個人誌を作り出した頃からどちらかに偏ることなく併用している。だからか絵描きというには中途半端で、文字書きというには文章が下手くそという中途半端な奴になってしまった。ブレブレだなあ。でも「絵描きでも文字書きでもない私は創作する上では一体何者何だろうな」と〆切り直前の絵を編集しながら考えていたあの日から約1年、こうして絵ではなく言葉で伝えようとしている私は、どちらかといえば文字書きなのかもしれないと思うようになってきた。そうでなければたかだか1枚の落書きにこんな何百字も書かないよね。実際絵は下手でも、本当のところはあまり悩んでいない。私の焦りや悩みは人の反応から引き起こされるものであって、一人で描く分には現状の描き方で不満は起きないんだ。だからどちらかといえば私の言葉を読んでもらうきっかけとして絵を利用していると言った方が正しい。絵ではなく添えた文章を読んで頂けたら本来の目的は達成。絵には一言も触れず外国語である日本語を読んで下さった方に諸手を挙げて飛びつきたい。そう、そこだよ、そこを私は見て欲しかったんだ!(180919)

 

 

 

180917。今年最後の一番の山場を終えて描いたもの。着色の際は大体こんな風に遊んでから微妙に塗り分けを始めている。色を大胆に、でも緻密に重ねていくのが、何というか、楽しい。へへへ。それに久々にグレー以外の色を使えて静かな喜びがわき起こる。最後の難関を抜けて緊張が抜けたから心に余裕ができたんだろう。無色か単色になるのは精神的に追い詰められている時だということを思うと、やっと一息つけたことを自覚できて自分でも安心する。伸びをしよう。(180919)

 

 

 

180828。振り返ると精神的に余裕がある時と無い時で作品の出来不出来に大きな差が生じているのがよく分かる。着色の有無やレイヤー数なんて顕著に差が出る。自分の精神状態に関わらず常に一定のレベルの作品を仕上げるプロでもない3歳児とはいえ、流石に落差が激しすぎるなあと笑ってしまった。こんなに精神的にすり減っていたのか。今からこんな状態だと、来年には筆を折る如く絵筆を折っているかもしれない。モーセが降臨したペンタブと芯がマカロニになったペンを写した写真を載せていた時は色々察して下さると幸いです。(180903)

 

 

 

180817。8月も終わりの頃、数年前から馴染みがある絵師さんの広場にこの落書きを1枚あげた。ほとんど更新しない私はそこに馴染みの友人と言える方がいる訳でもなく、ゴミをゴミ箱に入れるかの如く本当にただ落書きを投げ捨てるだけ捨てて、すぐにその場から逃げるように離れる。いやほんと更新するだけの気力も無いんだ。SNSやら投稿サイトはつくづく性に合わない(最終的には活動場所がこのHPだけになりそうで今から恐ろしい)。ただそれから数日後、マイページの文章を修正しようと再び立ち寄ったところ、不思議な絵描きさんにコメントを頂けていたことに気がついた。

 

春風が吹き抜けるような心地良さと聡明で豊かな感受性を感じさせる言葉に静かに鳥肌が立つ。言葉で説明せずとも見て頂きたかった点を正確に汲み取り、絵の背景まで慮って下さっていた。人は本当に驚くと表情を変えたり声を出す余裕さえなくなるもので、激しい動揺とは裏腹に、コメントを下さった方のページを静かに拝見することに。5月の陽だまりを色濃く映す影のように優しく穏やかな心地よさを感じる作風で、文才と絵心の両方を兼ね備えた才気溢れる方という印象をもつ。そんな方にお言葉を頂けてしまったと思うと、改めて喜びより畏怖心が勝り、胸を静かに締め付けられるような息苦しさを感じずには入られない。

 

twitterもほぼ停止しまった現在、落書きに対してお言葉を頂ける機会はそうありません。気軽に会話する場を設けていないこともあるとはいえ、そもそもコメントする価値のあるものがこんな僻地にあるかどうか本人でさえ定かではない状態なので、当然と言えば当然でしょう。だからわざわざ時間を割いてまで言葉を紡ぐ価値があると判断し、その上そのまま物語でも始まりそうな心踊る素敵な言葉をお土産に置いて下さったことが何よりも嬉しかった。Sさん、本当にありがとうございます。不器用ながらもお返事でその恩情に誠意をもってお答え出来ればと思います。(180903)

 

 

 

180723。ない頭を使っていっぱしに悩みましたが、結局1ヶ月前の構想に戻ってきました。久々に色ぬりができて楽しい。画力がどうの配色が変だの気になる所は山程あるし、それ以前に自分の絵柄に嫌悪を抱くことも多いのですが、純粋に想像して描くのが楽しいと言える自分でありたいものです。(180725)

 

 

 

180709。日常が非日常にすり替わる瞬間は春の訪れの如く、ふとした一瞬にやってくるようで。

地平線まで緑輝く田畑に底の浅い用水路。いつも同じ時間にあぜ道を犬と散歩する顔見知りのおじちゃん。子供が消えた街道を緩やかに飛び越えていく白鷺の群れ。私の地元は都会の喧騒とはあまりにもかけ離れた田舎町です。観光業も栄えていない上に商業・教育施設もほとんど無く、高校生や大学生などの若い方々が訪れる場所ではありません。小中学校の統廃合も少しずつ話が進んでおり(私の母校の小学校は建設当時から将来的に老人ホームになることが決定していました)、町からゆっくり、ゆっくりと子供がいなくなってきました。私は都会に出向く機会も少なくなり、話し相手は徐々に同世代から高年齢のおじちゃんおばちゃん方にシフト。これといった事件も刺激も無くそれなりに穏やかで緩い日々が流れています。

 

ただそんな平凡な日は案外予告なく、それとなく崩されるものです。横断歩道を挟んで向かいにいた、同い年のような女性の方に妙な既視感を覚えたつい先日の夕暮れ時。その時は首を傾げるぐらいだったものの、数日後に偶然にも同じ場所で再会した時は思わず自転車を留めて思い切り相手を凝視してしまいました。そもそも同年代の子を見かけること自体少ないため気にかかったという面もありましたが、なんと彼女は近年稀に見る完成度の高いドッペル(だと思います。多分。きっと)でした。正確には私のドッペルではなく、私の友人のドッペル。本物の友人はここより北部で活動しているためこんな場所にいるはずもないのですが、顔を合わせた2回とも友人と区別がつきませんでした。お互い進行方向が逆で、向こうは私に気づくそぶりはなく足早に去ってしまったたため「こっち来てたの?」と後で連絡すればいいかと悠長にしていたのですが、現在諸事情あって未だ友人と連絡は取れないまま。徐々にあの時の彼女が本当の友人かドッペルだか分からなくなってきました。次にまたあの交差点で会った時、私は親しい友人か誰かを前に「やっほう」とも「こんにちは」とも言えず「どっちだ?」という何とも気味の悪い惑いを感じることになるのでしょうか。確率は地を這うように低いとはいえ、あれがそもそも友人なら問題なし。そうでないならあれは誰で一体どんな方なのか。知りたいような、二度と会いたくないような、友達になりたいような。

都心のビル街の隙間や夜の下町もなかなか雰囲気がありますが、カエルや虫の鳴き声がわんと響く青紫色の夕暮れ時や自分以外に歩行者のいない点滅式信号の交差点など、田舎町は常にどこか危うく飲まれそうな一瞬に満ちているように感じます。夕暮れ時をかつては逢魔が時とも呼称しましたが、なるほど奇妙な出会いをしたものです。(180712)

 

 

 

180629。約1週間前に偶然生まれた創作話の想像を今も地道に続けている。最寄り駅到着の車内放送が流れてからホームに足を踏み出すまでの数十秒、布団に入って眠りにつくまでの数分といった日常のほんの一瞬に「こんな話はどうだろう」「設定を変えてみようか」と妄想する癖がついた。この瞬間が意外にも楽しいんですよ、意外にも。この快感を得たいがために創作を続けているとも思えるくらい。え?目的と手段を履き違えてやいないかって?いやほんと返す言葉もない。

平日はとにもかくにも慌ただしくて絵やら文字やらを描いている暇はない。だから紙の上ではほんの少しも進んじゃいないけど、頭の中ではゆるりゆっくりと物語が動き出している。ひゅう、二次創作厳禁の部誌に「提出できる物がない」と堂々と白状する程一次創作が苦手な奴が凄いじゃないか。幾度となく創作を妄想で断念してきた恥ずかしい過去も手伝って、今回は小説でも漫画でも落書きでもどんな形でもいいから紙の上におこそうと少し気負っているのかもしれないね。

結局この創作は絵になるのか文字になるのか、ゴミになるのか塵になるのか泡に消えるか海の藻屑になるのか。何故かお先真っ暗な行き先しか思い浮かばないという今世紀最大の謎(ネクストコナンズヒーンツ!:現 実 逃 避)を抱えつつ、適度に手をつけていこうと思います。(180630)

 

 

 

180622。幼い頃に大好きだったとある本をほぼ10年ぶりに読み返した。もう記憶も曖昧だからか新鮮な面白さがある。本についてはまた後日何かしら描くと思うのでその時に。さてホグミスとその本を読んだ影響か、もう寝ようと布団に入った途端に人だか何かが頭の中で存在を主張し始めた。うわ、もしかしてこれ、噂に聞く「一次創作」の始まりの瞬間なんじゃないか。わーお、この感じは久しぶりだ。写す紙もなく彼か彼女かも分からないそいつをひたすら見極めようとするも、厄介なことにそいつは一瞬で性別も髪の色も性格も変わってしまう。お前はチョークバスか。できたてのキャラクターってこんなにあやふやなもんだっけ。手に余るなあ。こいつをどうしろと…。

 

階下から椅子を引く音がしたのち、それまでかすかに聞こえていた洋楽が途絶えた。弟も寝たんだろう。町全体が寝静まり、小道を挟んだ近くの大通りを走るトラックの低い唸り声が一層響きだした頃、そいつはやっと豆電球で顔を照らしてくれた。おっ、ちょっと見えるぞ。でも何で豆電球なんだよまだ全然見えないじゃんよーと文句を垂れていると顔の鼻頭めがけてLEDをぶん投げられる(物は投げない!)。何も言っちゃくれないけど、ぼやけた背景とそいつが置かれている状況は少しだけ見えた。でも少し見えたからってどうすりゃいいんだよ。創作なんてここのところほとんど手をつけていないんだ。想像力なんて代物は胎内の忘れ物センターに預けられたままだし、文字だか絵だかに具現化する時間もそうそうない。何より人一人ポンと置かれただけで動き出す程創作は甘くない。でも久々の衝動の波に乗るのも一興だろうか。この際だから持て余し気味な謎の人物から何か膨らめないか考えよう。とっくに枯れた想像力の泉を掘ってみようぜ。もしかしたらアリのプールぐらいは湧き出すかもしれないからさ。(180623)

 

 

 

180525。うららかな春を目前とした3月の終わり頃、陽気な気候に浮かれていればいいものを、私はノートにポツリこんな文章を残していた。「凄い。何も描けない。びっくりする程何も描けない。時間が解決してくれ。頼むよ。本当に何も描けないんだよ。落書きさえダメなんだ。何も思い浮かばないんだよ。どうしたらいいんだよ」。そしてそれから1ヶ月。既に桜も散ってかすかに夏の兆しさえ感じられるような溌剌とした日々の中、まだ雪解けさえ感じられない言葉がノートに散らかっていた。「何も描けないけど、それでもとペンを取ってみる。もうかつてのような色も線も何も生まれない。4年前に戻ったみたいだ。指先が冷たくて動かない。描けない間にも私は時の中を進む。全て指を通して経験を形にしたいのに。動かないんだ」。

 

精神状態がそのまま落書きに反映される私は、抱える問題が山積みになり、一定のキャパを超えると驚くほど何も描けなくなるらしい。元々どれほど大きな問題に直面しても「そういう時もあるよねえ」と笑って対処する図太い性格だったけど、こうした不測の事態に何度かぶつかってから自分の性格に対する認識を改めることにした。ストレスに限った話じゃないけど、私はどうも自分の体や感情に対してドが3つ続く程鈍感。明らかに好意を寄せている男の子を華麗にスルーするために着々と冊数がたまる少女漫画の主人公並みに鈍感。こりゃ3つじゃ足りないな。ドドドドッド鈍感だ。5つ星ならぬ5つドレベルか。うーん、嬉しくない。それはともかく、私は自分が疲れているのか不満なのか、楽しいのか怖いのかも自分で判断できないポンコツなんだ。疲弊に気がつかないからいくら課題を背負っても気軽でいられる反面、突然体調を崩したり声が出なくなったりする。気がつかないんだから対策のしようがない。わあ、これが世に言う「詰んでる」ってやつか。「つんでれ」だったらまだ夢があるのにな。詰んでるつんでれ……やめよう、なんか今世界の闇が見えた気がする。

 

それでも私は1つ仮定を打ち立てた。それが前述した「一定のキャパを超えると驚くほど何も描けなくなる→何も描けない時は精神的に限界を迎えている」というもの。体や心が限界を迎えると絵を描くだけの余裕すら無くなるのでは……とぼんやり考えたのが昨年の秋。それから半年が経ったものの、なんと今のところ覆す事例がない。おおよそ絵が描けなくなった直後から数ヶ月の間で高熱やひどい関節炎に見舞われている。症状が出た昨年7月・12月・今年5月のいずれも少し前に大きな課題を抱え、絵が描けなくなっているんだ。それなら今の段階では「絵を描けないのは危険信号が出ている時だ」と判断してもいいんじゃないかな。数年前まで絵はそう近い存在ではなかったからか、それとも体が限界を迎えること自体がなかったからか、この歳になるまで気がつかなかったよ。

 

これは病み上がりに描いたもの。隅の走り書きには「青線いいな。描きやすい」としか残っていなかった。心なしか普段より線が無造作。修正する気も色を塗る気力も無かったらしい。お世辞にも上手くなったとは言えないけど、これを描いてから約1ヶ月経った現在、少なくとも「戻ってきた」感じはする。でも今後の予定を見ろよ。どうせまた限界を迎えるぞ。その時は絵なんか描いてないでさっさと寝るんだぞ。いいか。私との約束だからな。守れよ数ヶ月後の私。(180623)

 

 

 

180124〜0225。2016年4月から2年間ずっと出し続けていた個人誌を、訳あって2月初旬にNo.50というキリのいいところで一度けりを付けた。A4用紙1枚を半分に折ってエッセイのような落書きを1つ2つ載せるところから始まった2年前の春。翌年には4コマや数ページの漫画も見えるようになった。最後の半年は研究に追われて落書きもできず、文字書き並みに好きな作品について文章を綴ったから、総まとめとして再編集した本は無茶苦茶分厚くなってしまった。いやーよく書いたもんだよ。お陰で製本は大変だった。「ああー、ページ配分ミスった…」なんて一人苦笑いした夜7時。

 

部員とあまり会うこともできなかったから、少しでも交流するきっかけになればと始めたのが個人誌だけど、結局誰が見ていたのだろう。先輩に、後輩に、誰かに少しでも私の思いを届けることはできたのだろうか。総まとめ編を作り上げてもう半年、ふと当時の個人誌を振り返ってみた。配置もフォントも読み手への配慮は皆無で編集は無様、言葉足らずで文法の崩壊した日記は難解な暗号のよう。時間に追われていたとはいえ、この稚拙な出来には胃をぎゅうと握られるかのような猛烈な恥ずかしさを感じてしまう。うわああ何だこのド下手な燃えるゴミは!こんな汚物を生み出した作者は誰だ!……私だ!!(勢いよく崩れ落ちるーー!)

ただ後悔は一切ない。どんなに出来が酷くても、試行錯誤して作り上げた作品には違いない。ただただ自分が納得するまでひたすら真剣に構想を練った過去を簡単に笑い捨てる程プライドが無い訳でもないし、そんな自分を笑う人もいなかった。幸いなことに、私は本当に人に恵まれてもいたんだ。製作者としては反省すべき点が山のようにあるけれど、そうして支えてくれた方の気持ちを踏みにじってまで自分の作品を不必要に貶めるつもりは毛頭ない。きっと私が丹精込めて作ったとしても反応をくれる部員の皆がいなかったら、こんな充足した気持ちは生まれなかったろう。もちろん製作者としては色々、色々と思うところがあるんですけれども。うう。

 

2ヶ月の休止期間を挟んだ今年の春に、再び個人誌の製作を始めていた。ここ数ヶ月は編集する時間も取れず発行出来ずにいたものの、今日から少し精神的に余裕も出てきそうなので、また落ち着いて作り始めようと思い立つ。今しか描けないものを描こう。自分がどんな日々を過ごし、何に心を動かされ、どう感じたのかを可能な限り残していこう。人に見せる機会もなくなった今、作り続ける目的はもはや自分自身のためとなった。恥だらけの毎日を、それでも誇れる人生の一欠片として、紙に刻もうと思う。

 

追記:2年かけて作った個人誌の総まとめ編5冊は地球上に2つしかありません。一つは私の手元に、もう一つはお世話になった部室に置きました。今も部室にちゃんとあるのかな。誰かゴミ箱に入れてしまったかな。出来の酷さに驚いた衝動で誰かが破いてしまったかも。さあ、どうなっているかは分からない。あれはもう部室の部品だ。学校に入れる最後の日の夜、そこに置き去った私の気持ちを想像なんてしてくれなくて構わない。気になるのはいつだって一つだ。皆、元気に創作しているかい。(180807)

 

 

 

180224。前回出した絵からそう時間も経たない内に連続して描いたもの。これは前回の絵と比べて割と簡素で単純だから描くのはそう苦労しない。どうにかして人と背景を融合させたいと思ってなけなしにちょいちょい工夫したけれど、遠近法や元々の線画が至らず大した成果も出ないものになってしまった。これ、人を少し変えればまた違った絵になるだろうな。いつか描き直してみようか。後悔が残るならやり直せばいいじゃないか。この落書きがあったこと自体を忘れる前にリメイクしよう。(180728)

 

 

 

180220。人を描いてから背景に入るためか最初から背景を考えていないためか、背景と人が明確に分離しているように見えるのが気持ち悪い。具体的なイメージが湧かないから絵に表すこともできない。ただこの時どう描いてどう着色したのかは全く覚えていない。再現しろと言われたら無理と言える自信がある。これ本当に何色を何のレイヤーでどれほど重ねたんだろう。自分でもよく作業工程が分からないこの絵とは、自分で作ったにも関わらず微妙な距離がある。こう、自分の子供として確かに自分が育てたのに子供は理解不能な近寄りがたい子になってしまったような感じ。何じゃそりゃ。(180728)

 

 

 

171210。2017年の年末もいい頃に描いていた創作の落書きを半年も経った今頃まとめ出す私の計画性の無さと言ったらもう……酷すぎて言葉が見つからないよ。さては〆切りに追われて休日に美術室で一人版木を彫っていた頃から成長してないなお前。特に彫刻でさびカラーを塗る時なんて窓全開だから冬場に凍えながら筆を動かしていたなあ。「明後日が搬出…今日の19時が完全下校…フハハハハいける…いけるぞ…!」と魔王並みに悪どい顔(寝不足)で呟く高校生は危なすぎる。

 

今でもよく覚えている。授業もあれよあれよと終わりを迎え、とうとう冬季休暇に突入していた28日にようやく論文を書き終えた。朝から晩まで食事もとらずひたすらに地下書庫に篭り、黒茶色に煤けて端が散り散りになったページをめくってはカビ臭い独特の匂いに囲まれた日々。気付けのために延々とTaLの"À L'infini"と"Danse"を聞いていたのが悪かったのか、あれからこの歌を聴く度に執筆で死にかけていた時を思い出してしまい心地よく歌を楽しむことができなくなってしまった。純粋に歌を好きでいたかったな。もう苦行の歌にしか思えないよ。何たる弊害何たる誤算。

 

そして年末には不思議な交流もゆっくりと始まっていた。かねてから拝んでいたとある神絵師様の気でも狂ったか暇を持て余した気まぐれか、到底お話できないだろうと思っていた方と不思議な会話が進んでいたんだ。こんな機会は二度と無いだろうと思った私は、今ここに書いているような、文体の統一も尊敬語もへったくれもないお返事を投げつけていた(大迷惑もいいところ)。ところがこの神絵師様は心も尊大だったのか、こちらのノリに快く乗って下さったから大変。ずっと手を合わせるだけだった相手と何故かムスカの捕獲方法について話しているんだから訳が分からない。

 

除夜の鐘を叩きに行くのか外が騒がしくなってきた頃、年末で気が緩んでいたのか何とまた別の神様も迷い込んできた。ここには御眼鏡にかなうような代物は無いというのにまあ酔狂な方だ。私はどんな方であれ縁側で共にお茶を飲みたいと思う能天気な奴なので、束の間の関係でも心から受け入れた。きっとすぐに何も得るものは無いと気づいて去って行くだろう。それまで一緒に居られる日を楽しもうと本気で思っていたんだ。

 

それから半年、新しい生活に奔走してずっと留守にしていたTwitterを先日ちらと覗いてみた。きっとほとんどのフォロワーさんは姿を消しているだろう、また一人からの再出発も悪くないかとそれなりに覚悟していたというのに、かつての友人は変わらずそこにいた。そこにはあの不思議な話相手だった神様も、年末に迷い込んだ神様も……。惰性で繋がっている方が大半かもしれないけれど、唐突に姿を消して更新しない無価値な私と未だに繋がりをもち続ける彼らに敬服せずにはいられない。私は君らを侮っていたんだろうか。この小さな安堵と大きな罪悪感は何だろう。そこに戻ろうにも戻れない今の私を彼らは変わらず受け入れてくれるだろうか、なんて聞かなくても分かる問いに悩める幸せを噛み締めたい。(180616)

 

 

 

171115。昨年の11月に髪をバッサリ切った。今思えば人生で一番短くなった瞬間だ。短い髪が似合うかと言われたら曖昧に微笑むしかないけど、手入れから何から短髪は本当に楽だ。頭は軽いしマフラーには引っかからないしゴムでまとめる必要もないから今までの引っ張られる感覚とはおさらばだし、シャンプーも少なくて済む。最高じゃないか!短髪万歳!

 

私は中学を卒業するまで腰に届く程の長髪だった。小学2年生の時に一度ばっさり切った時のクラスの反応が髪を伸ばし始めたきっかけ。教室に入った途端にクラス全員がしんと静かになって、皆が私を凝視したあの朝が忘れられない。その当時から静かに1人でいることが多かったから、突然大人数に注目されたのがまずかった。軽いトラウマになってそれ以降一度も髪を切れなくなったんだ。ただその反動か高校入学と同時に肩近くまで一気に切り、今や男子並み。人生何があるか本当に分からないもんだよ。へっへー、一度首に沿った短い髪の部分をなぞってみたかったんだよねえ。美容師のおっちゃんは「いいの?本当にいいの?!」って何度も確認してきたけど、いいんだよ、おっちゃん。いっそ全部刈ってもいいかもって真剣に思っていたぐらいなんだからさ。

 

短髪もそれなりの悩みはあるかもしれないけど、少なくとも私は一切ない。それより今は長髪の子に賞賛を送りたい。長髪はお手入れが大変なんだ。その面倒ごとに負けずに今日も女の子は可愛く着飾って皆の前に現れる。よく見るんだ。その子の可愛さは彼女の努力の塊だぜ。可愛さを保つのは想像以上に忍耐が求められる。いくら褒めたって足りないよ。(180224)

 

 

 

171104。こちらに上げるタイミングが掴めずはや3ヶ月。今描いているものとのギャップが凄い。短期間でどんどん絵は変わって行くんだ。今ではこんな描き方はしないしできない。よく頑張った。私の歴史に埋もれて消えていけ。

 

落書きも苦労も捨てた時間も過ぎれば何てことはないけど、確実に当時の自分を切り取り記録として残していく。どんなに目を瞑りたい惨状も全部確かに私で、技術の程度も本心も思想も可視化させてしまう絵はある意味残酷で容赦がない。知らしめられ、打ちのめされてからまた筆をとるかはその都度本人が選択することになる。絵描きは凄いなあ。成果に満足して自分を褒める者もいれば自己嫌悪に陥ってなんて下手くそなんだと頭を掻き毟る者もいる。気まぐれに描く者もいれば精魂詰めて描き散らす者もいるんだろう。でもどんな絵描きも皆再び筆をとってきたことは一緒だ。誰にも頼まれていないのに、ただただ描き続ける。今日も世界中で世界に1つだけの絵が生まれるんだ。やあ、絵描きは凄いぞ。もっと誇ろうぜ。 (180105)

 

 

 

171114。背景の練習の一環で、とある2人を中心に連続性のある絵を数枚描いていた。背景については元々obanなどのファンアートを描き出した時に「作品のワンシーンも再現したい」と思ったのをきっかけとして、昨年の9月頃に挑戦し始めた。油彩水彩を混合して作ってみたはいいものの、慣れないことはするもんじゃない、奥行きもない段ボールのようなツギハギだらけの背景になってしまう。そもそも色がよく分からないんだ。世の中はそれはそれは豊かな色で溢れているというのに、私が描けば世界は一瞬にして曖昧を許さないモノクロになる。同年3月のHP2周年記念で描いた漫画には「多色は無理だと悟りました」と半ば諦めている自分もいた。それほど私は色が苦手。キャラを描くだけでも息切れするのに、背景まで描くとなるといよいよ過呼吸からの病院行きだよ。倒れるのは現実だけで十分。比喩の中でぐらいか○はめ波を連打する屈強な奴でいたい。

ただまあ一度挑戦してみれば5・6回目を超える頃には背景への抵抗はある程度なくなる。奥行きとまではいかないものの、背景の基準が自分の中で上がるんだろう。何より無理やりにでも色を塗る習慣を身につけたのが功を成したのかこれ以降カラーの作品が増えた。これはいい。完全に予想外だったけど塗りへの抵抗も同時に消えていったんだ。ついに脱モノクロかい?フゥーおめでとう!今まで存在意義を訴えていた錐体細胞が喜んでるよ!

 

見たものをそのまま描くのは好きでも人を惹きつける構図や色のメリハリは未だに分からない。アングルだって何それ美味しいのレベルだ。あと下書きが無い(本書きしない)から線が汚い。全体のバランスなど考えなしに人を描きだすから完成もしない。ちょっと課題がありすぎもいいところだよねえ、全く。さてね、そんな3ヶ月前の私にいいことを教えてあげよう。実は2月も中旬を終える現在、まともな背景はほとんど描いてないんだ!何やってんだよ馬鹿って?ごめんね!

成長か退化か判断するのはいつだって未来の自分だ。今から数ヶ月後に私はここに何と描くだろう。未来から険しい顔で冷静に見つめてくる自分に今は盛大な笑顔を見せてやる。全力で遊び倒す私から目を反らすんじゃないよ。未来の私が嘆こうが後悔しようが、そんなのは知ったこっちゃない。今この時の衝動や感性を忘れずに全て絵に形に残すんだ。刀片手の真剣勝負の如く絵と付き合うのは性に合わない。一緒にタップダンスで踊り明かすぐらいが丁度いい。筋肉痛になるのはどうせ明日の自分なんだから、今は羽目を外そうぜ。(180218)

 

 

 

171104。クッションに埋もれたい。ぽんぽんしてモッフモッフしたい。でも家にクッションは1つもない。1個ぐらいあったっていいじゃんねえ。少し前に話題になった「人をダメにするクッション」あるじゃん。あれが欲しい。あれに座って「あああー」っておっさんみたいな声を出して伸びをしたい。柔らかさに飢えているんだ。いっそクッションの海に沈みたい。子供の頃にちょっとしたパークとかで、ビニールプールに小さいボールが大量に入ったボールプールで遊んだ記憶がある。あれだ、あれに入りたいっていうのと同じ気持ち。はーモフモフしてえ〜。(180202)

 

 

 

171104。作業中に聞いている音楽の雰囲気が絵に反映されがち。日本語の歌よりも西語・仏語の歌をよく聴きます。西語ならDavid Bisbal・La Oreja de Van Gogh・Amaralに始まり、TINIやCali Y El Dandeeが多いです。仏語ならTAL・Shy'm・Christophe Willemが最近のオススメです。ちなみに英語はともかく、西語・仏語の歌はカラオケにもまず入っていません。いや私も1回しか行ったことはないので詳細は分かりませんが(友人に強制連行された)。もし「どこそこのカラオケなら西語仏語もあるよ!」という情報をお持ちでしたらどなたか教えて頂けると幸いです。私が喜びます。

 

実は西語が好きすぎて少し前にスペイン留学もしました。そしたら現地では英語の歌ばかり流れてるっていうね。まあ日本でも英語の歌ばかりですし、どこの国もそんなもんでしょう。でも大学の掃除のおばちゃんがAlex Ubagoを大音量で流しながらトイレ掃除をしていたのは最高にロックでした。日本で調べて聴いていた歌を現地のおばちゃんがノリノリで聴いてるんですよ。ああハイタッチでもしときゃよかった。おばちゃん、私もその歌好きです!パチーン!

 

生まれも育ちも日本で日本語を話し日本で教育を受けてきたと言うのに、日本語の歌に触れる機会はそうありません。1年間に一度紅白を観る以外に歌番組に目を通すこともなければ雑誌も読みませんしカラオケも行かないテレビもつけない。街中では英語の歌ばかり。そりゃ耳にもしないわな。もちろん自分で調べないのが1番の原因でしょうが、そんな日々を送っていたらいつの間にやら脳内曲目リストの西語仏語と日本語の比率が3:1程になってしまいました。

ああでももっと西語を勉強したい。もっと西語圏の音楽を調べたい。素敵な歌がきっとまだまだ沢山あるんだ。伊語や葡語も勉強したい。歌を理解し、覚えた上で楽しみたいんだ。語学は絵に勝るとも劣らない最高の楽しみだ。(180209)

 

 

 

171103。もう2月だというのに、描いてから随分時間が経ってしまった。今と描き方が随分違うため掲載するか迷ったものの、今まで載せてきたんだからと深く考えもせずに投稿する。ツイッターもそうだけどタイムラグが酷い。描いた瞬間からゴミになるんだからさっさと投げるに限るのに。

貯めるのは癖なんだ。描ける時間の方が少ないから、いつの間にやら更新を止めないように間隔を調整して絵を放出するようになった。実際には割と描いているためにむしろ更新が滞っている。なんて意味がないんだろう。一番更新が早いのはtumblrなので、興味のある方はそちらをどうぞ。※2018年6月19日現在、最も更新が早いのは当HPとなってしまいました。どういうことだよ。

 

中でもgalleriaは特に更新が遅いサイトの一つ。それは一枚一枚にこうして長文を添えているから。tumblrの更新が早いのは何も書かずに投稿しているからなんだ。deviantartもそうだけど、日本語を理解できるユーザーが圧倒的に少ない所では書いても伝わる相手がいない(逆に言えばあまり人目を気にせずに呟ける場所)。ともかく、私はここのように日本人が多く日本語で書ける場所では可能な限り思ったことを残しておきたいと考えている。有意義な話より圧倒的に無駄話が多いかもしれないけど、少なくとも私にとってはその時々で意味のある言葉ではある。

ただ作文にはある程度の覚悟と時間が求められるため、それが好きなことだろうと簡単には取り組めない。いい加減に書きたくないからこそ自分に厳しくなりここから更に遠ざかる。投稿へのハードルを上げすぎたね。そんなに思い詰めなくたっていいよ。誰が見ている訳でもないのに。

 

でも面白いもので、こんな独りよがりの投稿にハートを送って下さる稀有な方が時々現れる。絵か文章か何を見て送っているかは分からないけど、少なくともその方々のために、私は今日も書こうと思う。投稿現場より、その背景についてのお話でした。(180207)